1月3日(木)丸々ママデー4日目は安静で大人しく終わり、『おしん』を見て、子のない私が親の愛を考える。
丸々ママデー4日目。
3日目に転んで自ら自滅して、本日はず〜っと寝てる大人しいおばあちゃんである。
あたりまえである。
背中も足も打っているようで、寝返りもしんどいそうである。
トイレに付き添い、ジュースを飲ませて、お布団をかけて、ジェフを枕元に置く。
こんな時に思うのは、こうした世話が必要な弱いおばあちゃんがいいのか、足腰元気でどこまでも歩いていくストロングなおばあちゃんがいいのか…。
ちょっと弱ったママはとても可愛くて、なんやかんやで手をかけてしまうが、全身トゲトゲの燃え尽きるまで振り切るママリンの時は、はいはい、燃え尽きてねと放置になる。
で、お腹がすいたと言うたびに、アンパンやお菓子を出すと嬉しそうに食べるママ、可愛い。
普通の食事はいいそうで、お菓子が食べたいそで、それも許す。
しかし、やっぱり出ました、帰る、帰る攻撃。
「ママ、お医者さんが言ってたよ。今日は絶対安静って…。背中が痛いんやろぉ。ちゃんと寝てないと、ず〜と痛いのが、治らへんよぉ」。
いつもなら、「そんなことありません。あの医者はヤブです。私は看護婦やから、自分のことは分かりますっ」と、反抗するのだが、「そやなぁ。痛いねん。あんたとこに、寝てていいのぉ。そしたら寝かてもらうわぁ」。
しかし、それから何回も、まるで意地のように起きようとするが、すぐに折れてすぐに寝るママ。
そうそう、そのへんな勝ち気さというか、負けん気というか、それは、もう、やめなさい。
これは認知症のせいではなく、元々のママの気性のような気がする。
本当は、今、北新地に行ったら、ママが無くしたメガネとエコバックが見つかるような気がしたが、ママは寝ながらもアンテナをビンビンに張って、私の気配を探っている。
ちょっと台所やトイレやベランダに出ただけで、「あこちゃ〜ん。どこにおるのぉ。あこちゃ〜ん」と叫ぶので、どこにも行けない。
この三が日、朝からBSで池上彰の経済番組がやっていたので、お勉強させてもらう。
そうそう、見たことがなかったが、『おしん』も観た。
あんな貧乏でいい想い出なんかないはずなのに、大人になっても、最後の砦が「おかあちゃんに会いたい」と思うあの感覚…、ママも85歳にもなっても、「母さんが死んだんなら、生きててもしょうがない」と言っている。
母とは、そんなもんなのだろうか。
困った時やくじけそうな時に、お母さんに会いたい、と思う感覚は私にはわからない。
18歳で家出して、バイトや大学に行く交通費のお金もなくなった20歳の頃、もう切羽詰まって、恥を忍んで2000円貸しとママに電話したことがある。
しかし、「あなたが勝手に出て行ったのだから、自分でどうにかしなさい」とガチャンと切られた。
あの瞬間から、私には誰も頼る人はいないんだと、ものすごい覚悟が出来た。
とはいえ、友達には2000円の金も貸さない鬼親や悪魔や、もう私は天涯孤独やと、暴れまくったような記憶がある。
しかし、この母親に捨てられた事件をきっけに、とてつもなく私は強くなった。
困った時やくじけそうな時、頼りになるのは、自分だけなのである。
これは私にとっては、あたりまえだのクラッカー、至極当然なのである。
でも、あの、おしんでさえ、何かあるごとにお母ちゃんに会いたい、と思うのだから、ひよっとしたら私はおしんより強いかもしれない。
しかし、おしんの苦難というのは、主に人間関係である。
天涯孤独を基本としている私には、人間関係によるストレスとか、人と交えないことへの孤独感とか、人からどう思われているかの気遣いとか、そんな悩みはない。
まっ、暢気な人生なのである。
そんなことを考えながら、冷蔵庫のあまり野菜のラタトゥイユに、ブタテキを乗せて蒸し焼きにしたので、ワインをグビグビいきながら、ママのことを考える。
継母だったお母さんに愛されたことと、つぎおちゃんに愛情を取られたことへの憐憫と嫉妬。
今のママの心を占めているのは、この愛憎である。
認知症になって、制御していた感情が溢れ出し、ママは母親を慕う子供なった。
しかし私は、もしも認知症になったりして、いや老年の域に入って、母親を慕う感情が出て来るのだろうか。
どちらにしても、よく映画や小説にある、老年になってはじめて気づく親の愛とやらで、号泣するあのパターン、あれには、絶対に、なりたくない、ものである。
しかし、子供の頃のママの良い想い出がないので、認知症になってしまった今となっては、はじめて気づく親の愛とやらに遭遇するチャンスはもうない…。
と、思っていたら、『メトロに乗って』という映画が、タイムトリップというSFまがいのムチャな設定までまでして、子供時代の親への憎しみを溶かし気づかせるというテーマであった。
この、子供の頃には分からない親の愛情というものは、自分が大人になった対等の年齢、いや、中年、老年、いや、死ぬギリギリになっても、気づかせたいと思わせる普遍的テーマなのだろうか…。
たぶん、これをテーマにする作家や監督は、あまりいい親子関係ではなかったのだろうなぁ。
親の愛情に包まれてすくすく育ったのなら、こんなことは考えない。
本日の評価:
3日目に転んで自ら自滅して、本日はず〜っと寝てる大人しいおばあちゃんである。
あたりまえである。
背中も足も打っているようで、寝返りもしんどいそうである。
トイレに付き添い、ジュースを飲ませて、お布団をかけて、ジェフを枕元に置く。
こんな時に思うのは、こうした世話が必要な弱いおばあちゃんがいいのか、足腰元気でどこまでも歩いていくストロングなおばあちゃんがいいのか…。
ちょっと弱ったママはとても可愛くて、なんやかんやで手をかけてしまうが、全身トゲトゲの燃え尽きるまで振り切るママリンの時は、はいはい、燃え尽きてねと放置になる。
で、お腹がすいたと言うたびに、アンパンやお菓子を出すと嬉しそうに食べるママ、可愛い。
普通の食事はいいそうで、お菓子が食べたいそで、それも許す。
しかし、やっぱり出ました、帰る、帰る攻撃。
「ママ、お医者さんが言ってたよ。今日は絶対安静って…。背中が痛いんやろぉ。ちゃんと寝てないと、ず〜と痛いのが、治らへんよぉ」。
いつもなら、「そんなことありません。あの医者はヤブです。私は看護婦やから、自分のことは分かりますっ」と、反抗するのだが、「そやなぁ。痛いねん。あんたとこに、寝てていいのぉ。そしたら寝かてもらうわぁ」。
しかし、それから何回も、まるで意地のように起きようとするが、すぐに折れてすぐに寝るママ。
そうそう、そのへんな勝ち気さというか、負けん気というか、それは、もう、やめなさい。
これは認知症のせいではなく、元々のママの気性のような気がする。
本当は、今、北新地に行ったら、ママが無くしたメガネとエコバックが見つかるような気がしたが、ママは寝ながらもアンテナをビンビンに張って、私の気配を探っている。
ちょっと台所やトイレやベランダに出ただけで、「あこちゃ〜ん。どこにおるのぉ。あこちゃ〜ん」と叫ぶので、どこにも行けない。
この三が日、朝からBSで池上彰の経済番組がやっていたので、お勉強させてもらう。
そうそう、見たことがなかったが、『おしん』も観た。
あんな貧乏でいい想い出なんかないはずなのに、大人になっても、最後の砦が「おかあちゃんに会いたい」と思うあの感覚…、ママも85歳にもなっても、「母さんが死んだんなら、生きててもしょうがない」と言っている。
母とは、そんなもんなのだろうか。
困った時やくじけそうな時に、お母さんに会いたい、と思う感覚は私にはわからない。
18歳で家出して、バイトや大学に行く交通費のお金もなくなった20歳の頃、もう切羽詰まって、恥を忍んで2000円貸しとママに電話したことがある。
しかし、「あなたが勝手に出て行ったのだから、自分でどうにかしなさい」とガチャンと切られた。
あの瞬間から、私には誰も頼る人はいないんだと、ものすごい覚悟が出来た。
とはいえ、友達には2000円の金も貸さない鬼親や悪魔や、もう私は天涯孤独やと、暴れまくったような記憶がある。
しかし、この母親に捨てられた事件をきっけに、とてつもなく私は強くなった。
困った時やくじけそうな時、頼りになるのは、自分だけなのである。
これは私にとっては、あたりまえだのクラッカー、至極当然なのである。
でも、あの、おしんでさえ、何かあるごとにお母ちゃんに会いたい、と思うのだから、ひよっとしたら私はおしんより強いかもしれない。
しかし、おしんの苦難というのは、主に人間関係である。
天涯孤独を基本としている私には、人間関係によるストレスとか、人と交えないことへの孤独感とか、人からどう思われているかの気遣いとか、そんな悩みはない。
まっ、暢気な人生なのである。
そんなことを考えながら、冷蔵庫のあまり野菜のラタトゥイユに、ブタテキを乗せて蒸し焼きにしたので、ワインをグビグビいきながら、ママのことを考える。
継母だったお母さんに愛されたことと、つぎおちゃんに愛情を取られたことへの憐憫と嫉妬。
今のママの心を占めているのは、この愛憎である。
認知症になって、制御していた感情が溢れ出し、ママは母親を慕う子供なった。
しかし私は、もしも認知症になったりして、いや老年の域に入って、母親を慕う感情が出て来るのだろうか。
どちらにしても、よく映画や小説にある、老年になってはじめて気づく親の愛とやらで、号泣するあのパターン、あれには、絶対に、なりたくない、ものである。
しかし、子供の頃のママの良い想い出がないので、認知症になってしまった今となっては、はじめて気づく親の愛とやらに遭遇するチャンスはもうない…。
と、思っていたら、『メトロに乗って』という映画が、タイムトリップというSFまがいのムチャな設定までまでして、子供時代の親への憎しみを溶かし気づかせるというテーマであった。
この、子供の頃には分からない親の愛情というものは、自分が大人になった対等の年齢、いや、中年、老年、いや、死ぬギリギリになっても、気づかせたいと思わせる普遍的テーマなのだろうか…。
たぶん、これをテーマにする作家や監督は、あまりいい親子関係ではなかったのだろうなぁ。
親の愛情に包まれてすくすく育ったのなら、こんなことは考えない。
本日の評価:
by asayosan
| 2013-01-05 19:13
| 今日のママリン
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